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生きることと死ぬことへのファクトフルネス

久々に、だらだら自分の脳内をまとめる長文が書きたくなったので「ブログ」っぽいものを書こうと思う。最近、母親と電話するときに「あれ?この話は冒頭でしたのにまた質問されているな?」と思うことが増えた。たった数分前の会話なのに、同じ会話をしていることがたまにあってドキリとする。聞き漏らしだと気にしないようにしようとするが、続くとやはり物忘れやその先にある認知症を意識せざるをえない。長期休暇で実家に帰るたびに、白髪が増えたかな?祖母の記憶力が少し衰えたかな?そんなことが気になってくる。

ああ、今は永遠に続くわけじゃない。

当たり前だが、私たちは確実に老い、死に向かってゆく。各々の残り時間は公開されていない。きっと、わたしも平均寿命くらいは生きられるかな。そんな、不確実な予測のもと生きている。M-1のぺこぱのおきまりの台詞「時を戻そう」。現実では、時を戻すことはできないし、時計は左回りに回らない。なにも、悲観的になっているわけじゃない、事実そうなのだ。

29年 = 56840時間

最近、希望する高齢者は70歳まで働けるようにしようとかいう高年齢者雇用安定法改正案のニュースも耳にする。まだ決まったことじゃないので仮に定年を65歳、かつそれまで健康に生きられるとすると、わたしの残り時間はあと、29年。年間休日の平均は120日と言われているので、1年間に365-120=245日働く換算で、1日8時間だとすると、245日×8時間×29年 = 56,840時間残されている。これを、働く=生きるとして考えたときに、何に投資をするかを考えることが必要なのではないかと最近思うようになった。

1万時間の法則で考えると、新しいことを5つくらいはできそう?でもきっと全部は使えない。病気や、介護や、もしかしたら育児もあるかも(もしかしたら事故か急な病気ですぐ旅立ってしまうことも考えられる)。やりたいことを100パーセントやれるわけでもないだろうし、パフォーマンスだって落ちる。それも鑑みたうえで、何に使う?わたしは、生きている間に、何を成そう?

5日×3回×20年 = 300回

仕事だけじゃない。たとえば。両親が健康で、85歳くらいまで生きるとして、あと20年。たった、20年。孫だって成人しない。わたしの仕事人生の残り29年のうち、20年、毎年正月とGWと夏に5日間ずつ帰省したとする。朝昼晩のごはんを共にしても、5日×3回×20年 = 300回 。あなたと何回、食事を共にできるだろうか。たとえば、この文章を読んでくれているなかにいる友達、なかまもそうだ。あとどれだけ食事を共にし、おしゃべりできるだろうか。もし伴侶ができたとして、子供ができたとして、どれくらい一緒にいられるだろうか?

限られたリソースを何に配分するか

そんなことを考えはじめると、生きること、時間、いろんなひとと会うこと、食べることが急にとても貴重なものに思えてくる。いくら医療が発達したとしても、今の予測では人は、かならず死ぬ。人生の終わりは等しくくるのだから。たぶん、年齢なんかもあるのだと思う。30代半ばになると、先に生まれた先輩たちが、別の世界に旅立っていく。そういうタイミングに同席する機会が増える。そうすると、あまりにもあっけなくこの世界からいなくなってしまったことがとても不思議で、ああなんてこの体という乗り物は不確実で不安定なのだろうと思うのだ。

悲しむことや、凹むことや、むかつくことや、喜ぶこと、交渉がうまくいかなくて詰むこと、対立すること、受け入れられること、全部全部含めて生きる時間だ。どうせなら、ネガティブな時間は減らしてパフォーマンスが出るように時間を使いたい。せっかく、居心地のいいひとたちと過ごすなら、愚痴なんかよりももっとわくわくしたり深まる話をしたい(もちろんそのひとのためになるなら相談を聞くことは嫌じゃない)。

ポーカーをやったことも、大きいのかもしれない。ゲームに関しては完全に弱くて自分のスタック(保持しているチップ)はすぐに吹っ飛んでいってしまうのだが、なんだかポーカーに似ている。アジャイルコーチングの本を読んだら、『配られたカードを変えることはできない。変えられるのは、そのカードでどのようにプレーするかだけだ』と書いてあった。配られたカード(環境、スキル、運とか色々)と、手持ちのチップ(残された時間)を使った人生ゲームなんじゃないかな。もう、ひとのゲームにチップを賭けている余裕がない。

好きに生きろ

このごろ呪いが解けて、ひととじぶんを少しずつ切り離せるようになってきた。誰かが叶わない想いをこじらせてしまって、悲しみからくる怒りや嫉妬を向けてきたとき(恋愛ではなく人生において)、「それは彼/彼女の問題だ」と思えるようになってきた。昇華できずにこじらせている他人の苦しみを代わりに引き受けてまで、限られた生を使う余裕はないと思えるようになった。

そうこうしていると、自らのこじらせにより私の人生をコントロールしようとしてくるひとがてんでダメになってしまった。意思を尊重し、死ぬその時まで選択の自由があること、誰かの意思ではなく自分の意思で決断していること。たぶんそれならいつ人生の終わりが来ても笑える。「落ち着いたら、あとでやろう」なんて、いつまで経ってもないし、そうこうしているうちにも時計の針はどんどん進んでいる。

ちょうどこの前、長いこと推していたデザイン会社が解散を発表した。そこには、「命をどのように配分していくか」について書かれていた。大学時代にアルバイトをしていたWEB制作会社の社長さんは「人生のほとんどは家族と仕事で占められている。だから、一緒に過ごすひとが大事なんだ。」と話していた。自分に残された命は自分のものだ、自らのハンドルを握って、自分の意思で使い道を決めていかねばならない。

はやくこれに気づきたかった。でも、今がわたしの最速なんだ。