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to see more to see.

RSGT2021に行ってきたので個人的に考えたことの備忘録を書いておく

1/6-1/8の3日間、毎年恒例のRegional Scrum Gathering Tokyoに参加した。色々感じたり浮かんできたことがあったので、個人的感想として書き留めておくことにする。個人としての備忘録であり、感想であり、セッションレポートは書きませんm(_ _)m

組織とプロダクトのぜんぶ

セッションに組織の話やプロダクトマネジメントの話が入っているのが印象的だった。Discord内の中で、「だいぶ考えが広がってきてチームでうまくやれることはわかった。けど、売れるプロダクトにするにはどうするのかとか、組織の話とか、そういうことが話せる状況になってきた」という話を聞いた。

2日目のAgile Testingの話が予想以上によかった。ソフトウェアテストの話でしょ...と思っていたのだけど、プロダクトの話だった(語彙力)。ユーザビリティテストやプロトタイプレベルでの仮説検証のテストの位置付けなの話も出てきて、エンジニアだけじゃなくてデザイナーもその品質の一端を担っているんだと背筋が伸びた。品質の例の話をするときに、ユーザーの例として視覚障害の話があったり、アクセシビリティユーザビリティ、UXの話が当たり前のように例に出てくるのに驚いた。例に出すってことは、みんながわかりやすい例えってことでしょう?

組織構造の面では、ネットワーク構造の話もあった。WIADのセッションでも、ツリー構造では情報が表せなくなってきている話があったような気がするのを思い出した。情報がネットワークになって、組織もネットワークになるのか。コンウェイの法則にも関係しそう。

SCRUMMASTER THE BOOKの著者のZuziさんのセッションのなかで、「心理学者や社会学者が最高のスクラムマスターになれる」「文化人類学者の目を持つ」という話があった。知らない組織にスクラムマスターやコーチとして入って行くには文化人類学者が異文化の民族にお邪魔していくように...という観察と傾聴の話だと理解している。他にも色々なソフトスキルが必要なのだけれども、ファシリテーションの能力はOSTでもどう伸ばすかが話題になっていたりして、必要な能力の一部分はUI設計に関わってきたキャリアで積み上げられているかも?と思って聞いていた。

最終日のクロージングキーノートの野中先生のセッションでは、SECIモデルの話でUXみを感じた。左上の象限の「共同化」は、現場に出向いたりして利用者に共感するところ。共感して、直感をぶつけあい、コンテクスをあわせよと。チームの中で、デザイナーやリサーチが貢献できるところじゃないかと熱くなった。

こうやってデザイン方面との繋がりを勝手に紐づけて心の中で結構きゃっきゃしていた。

実験と経験を楽しむ

RSGTの雰囲気が好きなのは、みんなが実験と経験を楽しんで大事にしている感じがするところ。常になにか新しいことを試していて、チャレンジしていて、成功じゃなくて実験やそのなかの工夫のシェアに価値がありそうなところ。挑戦して実験して失敗して経験するぞおおおいという前向きな気持ちになれる。RSGTは新年の気持ちを新たにするイベントといってよい。新年の抱負を考えるイベントのようだ。

不確実性を楽しんでいて、何かが起こってもそこへの適応が早い。その場をいかに楽しむか、面白くするかを考えてるってすごくかっこいいな...と考えていたら、セッションの中でのクネビンフレームワークの説明で、アジャイルは上半分の複雑、煩雑な問題に向いているという話があった。そういうのが好きな人が集まってるんだから、そりゃそうだ!と妙に納得した。

帰りにやる気が湧いてきた。

今年は、去年知らなくてチャレンジできなかったcoachs-clinicの相談に申し込んで相談できた。ひとつ新しいことを試せた。

インターネットとリアルのあいだ

コロナの影響もあり、今年はオンラインとオフラインのハイブリッド開催。リアルとオンライン別々に分かれているような形式なのかと思っていたら、融合していてすごかった!コロナの感染者数が多かったのもあり2日間はオンライン、最終日の昼からの2時間だけオフライン会場に出向いた。オンラインとリアルがスムーズに繋がっている感じがした。特にお気に入りだったのが、Discordの「廊下」というチャンネル。リアル会場の廊下の参加者と、オンラインの廊下で会話が発生したりして、リアルとオンラインがちょっと溶けてる感じがした。Discordのいちチャンネルなのに、廊下って書いてたら廊下っぽいふるまいになって不思議だった。

今日、何をする?

クロージングキーノートの野中先生のセッションのなかで、『過去は、身体記憶としていまに臨在している』という話があって、ハイキューで出てくる台詞を思い出した。

『全国2位が何やねん

どっちでもええわ昨日のことや

“昨日”はもう消化した

たくさんの”昨日”はもう筋肉になっとる

今日 何をする?』

RSGTを筋肉にして今日何をしよ?

2020年のふりかえり

毎年大晦日に書いているふりかえり。2020年の大晦日の今日は実家に帰れないので東京で書いている。昨年のふりかえりはこれ。

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仕事は25日に納めたものの、コロナが心配で香川への帰省は自粛した。毎年仕事が終われば逃げ帰るように新幹線に乗っていたのだが、時間があるので珍しくキッチンやお風呂の換気扇まで大掃除し、ハイキューのアニメを全話見て鬼滅の刃を読破した。毎年ばあちゃんちでやるもちつきには参加できず、弟にLINEで実況中継してもらった。実家から送ってもらったうどんを年越しうどんとして食べて、紅白を片耳で聞きながら書いてる。大晦日感がまったくない。2020年の年始には、こんなことになるなんて想像していなかった。春から徐々に増え始めた新型コロナの影響によって、がらりと生活が変わった1年だった。

生活が変わった2020年

今年一番変わったのが生活だ。2月に参加したCIIDのウィンタースクールの会場だったビルで新型コロナの感染者が出たということで、わたしだけ早めにリモートに切り替わった。それから緊急事態宣言が出て、会社としてもリモート推奨になり、夏までほぼ出社せずに家で仕事をしていた。

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今も週2回物理出社すればいいほうで、ほぼリモート。部屋のレイアウトも変え、椅子やモニタを新調して快適作業スペースが整った。通勤してた時代は仕事モードになるまでに時間がかかったが、なぜか家のほうが仕事への立ち上がりがはやい。それまで朝決まった時間に起きて、満員に近い電車に揺れ、ときに脳貧血で気持ち悪くなって駅のベンチで倒れてる...そんな通勤が嘘だったかのように、余裕ができた。5時間睡眠だった睡眠時間は、6時間以上ちゃんと寝るようになったし、朝ごはんも食べるし、散歩もする。栄養ドリンクに頼ったり、23時に帰ってきてコンビニのごはんを食べることもなくなり、自炊して昼も夜も決まった時間に食べるという超絶健康生活になった。自炊のめんどうさを外出のめんどうさが上回り、引きこもりが加速した。これまで年に何回か風邪を引いていたのだけど、今年はまったく風邪を引いていない。今までの生活に戻れる気がしない。

しごと

今では信じられないけど、1末から2月頭にかけてデンマークウクライナに行っていた。まだ新型コロナが中国で...というレベルで、空港はちょっと怖かったけど、海外出張も禁止されていなかった。ほんとうに運が良かった。そこから幸運なことにも東京で開催されたCIIDのウィンタースクールにも参加でき、デザインに対する考えかたがちょっと変わった。

4月までの1年間でいくつかチームの立ち上げサポートをしたり、草の根活動をした種まきの結果が徐々に出てきた年でもあった。

よいこともあったけど、コロナや諸々の影響で路頭に迷ってしまった。2019年のふりかえりで「社会人人生のなかでも死ぬほどしんどかった」と書いていたけれど、2020年はそれを立て直せず、気持ち的に辛い状況が続いた。10年積み上げたキャリアがすっかり崩れて何もなくなってしまったような感じでめちゃスランプだ。コロナで引きこもってる影響もあるのだろうか。古くからの付き合いの先輩や友達にものすごく迷惑をかけた。こまったけど、生きてるしまた一から積み上げていくしかない。

ハイキューの田中も「ところで平凡な俺よ、下を向いている暇はあるのか」と言っとる。

新しくやったこと

オンラインのつながり

今年は物理開催の勉強会もなくなって、全部がオンラインになった。懇親会で話したり飲みにいったりする機会はなくなったけど、Twitterのつぶやきがきっかけになったりして、春からいくつか勉強会やDiscordをはじめた。ふりかえってみると、5、6月から休まず継続していて意外とちゃんとやってた。

しろくま

情報アーキテクチャ第4版を読んでナビゲーションを極めるぞいとつぶやいていたTwitter友達と、3人で輪読会を始めた。負荷のかからないペースでと、毎週1時間ずつ読み進めて、年内に第4版を読み切った。3人の所属も違うし、職域がちょっとずつ違っていたので、それぞれの経験や意見交換するのもとても有意義だった。半年間しかやっていないのに、いつの間にか共通のコンテンツで盛り上がったり、他の勉強会の実況中継をしあったり、夜の公園の芝生にブルーシートを広げてきゃっきゃしたり、キャリアの話をするまでになった。この歳になって友達ができた、とても不思議でとても貴重だ。IA本から3人の共通のテーマで書籍を変え、今はプロダクトマネジメント本を読み進めてる。

りあくと勉強会

いい加減コードを触らないと手が錆び付くなと思っていたら、これもTwitterで一緒に勉強してくれる仲間が見つかり、りあクト!本の輪読と写経からはじめた。本を終えたらRealWorldの実装をしてみたりして、少しでもコードに触る時間を増やすことができた。これも毎週1.5〜2時間ずつやっていて、気づけば35回を達成した。ReactもTSもひとりでは心配な状態から、ある程度あたりがつくようになって、仕事でいきなり書くことになっても速度は遅いけど戸惑わずに向かえるようになったと思う。ぐっじょぶ。

ドメインモデリングやる会

ドメインモデルからUI設計と開発に向かえるのが理想ではないのかという仮説のもと、モデリング勉強したいなと思ってこれもTwitterで繋がってた3人ではじめた。3人とも素人なので一緒に設計本の輪読をして、あーだこーだ言いながら概念のモデリングというものをこねこねしている。5月からはじめて、隔週でいままで続いている。来年は有識者に相談したいなというお気持ち。

デザインとスクラムがなかよくする会

アジャイルコーチの知り合いと、デザインとアジャイルの領域の重なりについて話そうとしていて、他にも話したそうな人はいないかとツイートをしたら、自分が思った以上に反応があった。ビビりながらもDiscordで興味のありそうな知り合いを集めてこぢんまり情報交換をはじめた。ロールに関わらず参加してくれていて視点が色々で面白い。これは月1でゆるゆると雑談会をやっている。はじめは、現場での工夫とか困りごとを共有できたらいいなと思っていたのだけど、いざ話し始めてみると組織の話や対立の話に流れていくことが多かったように思う。

そのほか、いろんな勉強会がオンラインで開催されているので、ご飯食べながらとか物理出社の帰りに聞くとか、気軽に参加できてよかった。

文章を書いたり読んだりすること

昨年挑戦したHCDのインタビュー記事を今年も書いた。アポ取りからインタビュー、書き起こしの発注など書くことの前の段階にも挑戦した。昨年は文章を書くことの右も左も分かっておらず、編集部の方に大幅にリライトいただいたのだけれど、今年は昨年よりはうまくできた(と思う)。想いを持って設計している人たちがいるんだぞ、ということを少しでも世に出せればいいなと思っている。

今年は本の原稿を2本読ませていただくという貴重な経験もした。とても勉強になったし刺激になった。そのうちの1冊は発売されて、ちょうどクリスマスに届いたので、冬休みに読む宿題だ。

コ・デザイン

コ・デザイン

2021年の妄想

今日は東京のコロナ感染者が1300人を超えた。ばあちゃんはどちらも健在で、97歳と93歳だし、親兄弟も特に大きな病気をせず元気だし。当たり前のことのように思えていたけど、それは当たり前じゃなくて、そういうことがありがたい。

来年は後厄だからきっと浮上できるはず(もういい加減浮上したい)。しなやかに、自分らしさを見失わず、調子よくごきげんに生きることを目標に。今年新しくできたオンラインの繋がりは継続していきたい。

今年色々お話してくれたひとたち、本当にありがとうございました。また、らいねん遊んでくれたらうれしいな。

わたしがどうやって今のわたしになったか、ポエム的むかしばなし(前編)

昨日、インターネット老人会っぽい話を聞いたら影響されてしまい、去年から書いていたポエムを公開しようと思い立ちました。このあたりのツイートがきっかけです。

インターネットと出会った時代から現在まで、約20年間、ちょっと長い自分語りです。前半は、学生時代からどう技術とデザインに関する考え方を築いてきたか、後半は社会人になってどういうキャリアを歩んできたかを書いてみます。たまにドヤっています。

ハローインターネット

2018年の年末にNHKで放送された「平成ネット史」で紹介された「インターネット」が始まった時代。わたしの父親は機械系高校の出身で、なんだかんだ機械をいじるのが好きだったものだから、小学生の頃から家に「パソコン」がありました。タバコのヤニで壁が黄ばんだ部屋に、デスクトップ一式。土日になると、富士通バザールでござーるの旗が並ぶパソコンコーナーに父と一緒に通っては、見本として並んでいるパソコンのチュートリアルやタイピングソフトで遊んだりしていました。

中学時代、仲の良い友達のお父さんもパソコンが大好きで、その影響か友達はHTMLを書いてホームページというのを作っていました。ホームページの「もと」を見せてもらったものの、それはものすごく難しそうで、尻込みをしたのを今でも覚えています。友達の家は歩いて50メートルほどの場所にあってよく通っていたので、彼女と遊んでいるうちにわたしは簡単なマークアップだったらできるようになっていきました。「サンドイッチみたくはさんだら、できるんだよ!」そうやってマークアップを覚えました。それからというもの、学校の帰りに本屋さんに寄ってはHTMLの本を読み漁り、「画像を表示するにはimgと書けばいいらしい」とHTMLタグを1個ずつ覚えてはダッシュで家に帰り、忘れないうちにホームページをいじっていたのでした(小遣いもなく高価で技術書を買えなかったのです...本屋さんごめんなさい)。

その頃、23時以降のテレホーダイと呼ばれる時間だけ、インターネットを使わせてもらえました。ダイヤルアップでチリチリと鳴る黒電話を取ろうとする母親を「電話ちゃうけん!」と静止し、夕方にせっせと作ったソースコードffftpで公開したり、KENT WEBで配布していたcgiをいじって設置した掲示板やチャットで好きな小説やアーティストの話をしていました。cgiを設置する際に設定する775とは一体何なのか、パーミッションの設定に四苦八苦した記憶があります。わたしが作ったホームページの名前は、「仮想空間」。描いた絵を公開したり、詩や小説、HTML講座なんかも書いていました。

インターネットで繋がった世界には、アーティストや小説など、その頃の私が好きなものと同じものを好きなひとたちがたくさんいて、メル友が何人かできました。香川のど田舎では、ライブになんか行けないから、東京や埼玉の顔も見たこともないメル友にポスターを買ってもらったりしました。掲示板で出会ったおねいさん方と分担してストーリー分岐型のゲームのようなものを作ったりもしました。現実では、スクールカーストの下の方にいたいじめられっこのわたしも、23時からログインできるその仮想空間ではのびのび遊べました。そこは、友達がたくさんいる遊び場でした。

Kyushu Institute of Design

絵を描くのが大好きで、中学も高校も部活は美術部にいました。高校進学の際には県内の工芸高校(公立の美術系の勉強ができる高校)を志望したのだけれど、すこしだけ勉強ができたので「勉強を捨てるなんて勿体無い」と親から結構な勢いで反対され、担任との面談時の反抗も虚しく進学校へ進むことになりました。あまりに反抗したものだから、高校の入学式の際に母親から「嫌な高校に入学することになってごめんなさい」という内容が書かれた手書きの手紙がきました。

ある日、県の絵画コンクールに出展したら、個人で美術館を運営している方から絵を売って欲しいと連絡があり、はじめて自分の絵が売れました。今考えれば、描くのにかけた時間にも満たない金額でしたが、美術系に進みたかった自分にはめちゃくちゃ嬉しかったです。そのころ、例に漏れず結構厨二だったものだから、自分の存在は透明に近いけど、描いた絵だけは認められて、肉体が死んでも生きてた証が世にあるなとか考えていました。とんだ画家気取りです。

少し天狗になっていたのもあり、大学こそと藝大を目指しますが、案の定ここでも「芸術は儲からないから」と、また反対されるのでした。親の勧めは経済学部に行って税理士になるとか、理系だから薬学部に、などでした。長い間そろばんをやっていて、海外の交流大会に出ていたりもしていたので、わけもわからないまま、将来なりたい職業に税理士をあげていた時代もありました。周りの友達は薬学志望が多かったので、試しに薬学部の説明会に行ったらものすごくつまらなくて、一瞬で寝落ちてしまい自分には薬学は向いていないと悟りました。

その頃好きだった教科は数学と物理と英語と美術。物理実験室に通っては、物理の先生とおしゃべりをするのが日課でした。そこで偶然、国立理系(勉強も捨てない)だけど、芸術もやる大学を出たOBのおねいさんがいると先生から教えてもらえました。そこだったらいいんじゃない?電話かけてみたら?と先生に推されるまま、高校3年生が、同窓というだけで東京で働く見ず知らずのおねいさんに電話でアタックをかけ、その後長期休みで香川まで帰ってきているタイミングで高松まで会いに行ったのです。

そこで「芸術工学」という分野と出会います。芸術という名前がついているけれど、なぜかある程度の学力が必要な大学もあって、文句を言われず芸術系に行けそうな望みがありました。そうやって、日本じゅうの芸術工学部を志望校に入れ、パンフレットを取り寄せた大学の中でも、私の目に抜群にかっこよく映ったのが九州芸術工科大学でした。

しかし模試の評価はずっとD判定。センター試験の結果もふるわず。二次試験は数ⅢCと英語、デッサン、色面構成でした。このままでは地元の大学に行かされて、OLをして寿退社とかいうルートに乗ってしまう!これではここで人生終わりだ!と思い(本当にそう思っていた)ながら、必死に予備校に通いました。いざ福岡の受験では手応えがなく、九州に来ることはもうないだろうから記念だとひよこのキーホルダーを買って帰りました。ところが!自宅に届いた合格発表の通知の書面には私の受験番号が...!ほんとうに小指が一本だけひかかったくらいのギリギリで、九州芸術工科大学で晴れて「デザイン」を勉強できるようになりました。(ひよこのキーホルダーは、福岡土産としてばあちゃんにあげました。) わたしの人生の中で、九州芸術工科大学への合格が、一番の成功体験かもしれません。

Art and Information Design

大学には、芸術と工学の融合がデザインであるという、それまで知らなかった世界線がありました。九州芸術工科大学は、1968年に日本で初めて芸術工学という分野を掲げた国立の単科大学です。科学技術と人間の最も自由な発現である芸術を融合させた学問分野を目指し、「技術の人間化」をかかげ、技術を人のために活かす理念が流れていました。人間が技術を賢く利用することによって、より幸せな生活を送るために。人間を中心としたこの考えに、わたしは大変影響を受けました。

この学校には、工業設計、環境設計、音響設計、画像設計、芸術情報設計という、5つの領域が異なる設計学科がありました。本当は画像設計学科(グラフィックデザインが中心の学科)に進みたかったのですが、センター試験の点数が足りなかったわたしは芸術情報設計学科に進みました。英語での名称は、Art and Information Design。いまふりかえると、ソフトウェアデザインに通じるところがあります。芸術工学の概念から文化人類学、色彩学から符号化理論まで、デザインに関わるものから工学まで、幅広い授業がありました。幅広い分野は学んだけれど、これがどう繋がってなんの役に立つのか...工学の分野では工学部に劣るし、デザイン分野では美大に劣るのではないか、学生間では器用貧乏さがよく話題にされていました。

今考えれば、文化人類学のアプローチはユーザーリサーチのベースになるし、実際に技術を利用するにはその技術の成り立ちを知っておく必要があります。のちに学科のWebページを作ったのですが、その際のコンセプトは「未来のダビンチを目指して」でした。レオナルド・ダ・ヴィンチは画家として知られているけれど、建築や数学、幾何学、解剖学など様々な分野で業績を残しています。彼の絵画のリアルで美しい人物表現の裏には、解剖学からの人間の肉体への理解があります。それと同じように、技術を人間のために使うには、技術と人間の理解が必要だったのです。ファッションデザイナーが、素材を理解するように。ちゃんとそのことに気づくのに、結構な時間がかかりました。

はじめてのチーム

大学の課外活動には、照明演出や音響専門のサークル、ライブの記録映像を撮るサークルなど、とにかく専門的なサークルがたくさんありました。特に、学園祭に命をかけるような文化があり、サークルに加えて学園祭の企画に入って1年を通して活動をする人が多かったです。学園祭は3日間+前夜祭。テントの店を出す学園祭というよりは、文化祭に近く、ライブパフォーマンスや空間演出企画、ファッションショーやクラブっぽい企画まで複数の企画団体があり、工業デザインから建築/環境系のデザイン、グラフィックを専門領域とする各学科のメンバーが集まってきていました。

また、文化祭の最終日には「火祭り」と呼ばれる儀式がありました。背丈より高く木材を組んでできた火柱を囲み、テンポの速い太鼓の音に合わせて踊るのです。聞くところによると、大学の設立時、文化人類学の教授が、歴史の浅い大学だからこそ何か強いつながりができる儀式をと考案したものだと聞いたことがあります。

学園祭企画は、芸術工学という思想と同じ文化を共有した、各COE組織のメンバーからなる職能横断型チームのようでした。企画団体の組織は、企画のコンセプトの判断など、トップを務める「頭」と、映像班、美術班、音響班、広報など、その企画に必要な組織で構成されていました。それぞれの分野にも映像頭のような責任者がおり、横の組織と連携しながらひとつの企画を成功させるために有機的に動いていました。あるとき、私が所属していた企画の頭が「頭は実際に手を動かしてはならない。それだと各班で起こっていることが見えなくなって、不測の事態に対応できなくなってしまう。」と言っていたのが印象的でした。大学生ながらに、プロジェクトマネジメントとチームマネジメントをやっていたのです。

その頃のわたしは、インターネットのことを忘れて、グラフィックデザインや映像制作にのめり込んでいました。学園祭では、映像系のひととして、ライブの保存映像の撮影をしたり、演出映像の仕込みをしたりしていました。パンフレット制作の企画にも所属しており、「誰だこの文字詰めをしていない原稿は!」と先輩に怒られたりしながら、制作に関することを覚えました。学園祭企画はとても刺激的でした。同じ目的を共有し、様々な専門のメンバーが協力することによって、いち足すいちが「に」ではなく、それ以上のものが出来上がる・・・ここでの経験が、わたしがチームでのものづくりを信じる原体験になっています。もういちど、あのチームと同じようなものづくりがしたいと思いながら、日々働いています。

Rich Internet Application

就職活動か大学院進学かを考えなければいけないという頃、Webクリエイティブやインスタレーションが百花繚乱で、その頃の憧れはもっぱらWEB広告企業のクリエイター達でした。例に漏れず、中村勇吾さんがヒーローだったし、カンヌライオンを取るようなWEBの広告クリエイティブに憧れました。広告批評や、WebDesigning、Web creators など、図書館に入り浸っては広告系やWeb系の雑誌を読みふけりました。

かっこいいFlashコンテンツはグラフィカルなプログラミングができないと作れない。しかしそこにどう手をかけていいかもわからない...。漠然とWebクリエィティブに憧れたわたしは、とある大手企業のインターンシップFlashのテーマがあるのを見つけ、2週間のインターンシップに参加することにしました。そのテーマは、RIA(リッチインターネットアプリケーション)開発。Flashコンテンツとアプリケーションの違いも、オブジェクト指向プログラミングさえも知らない私は、ここでFlexを使ったGUIプログラミングに出会います。

インターンシップは、R&Dで実際に検討しているテーマを題材に要件定義から詳細設計、開発、テストの流れをひととおり体験するという流れでした。mxmlの書き方から、ボタンを押したらアラートを出す練習なんかをしました。今では笑っちゃうくらいですが、「クラスってなんですか!」なんて基礎中の基礎を指導員のかたに長々と質問し、ノートはメモでびっしり。よくもこのレベルの話に根気強く付き合ってくれたなと頭が上がりません。

インターンシップの1週目を終え、週末の宿題にとRIAコンソーシアムがまとめた冊子「RIAシステム 構築ガイド Essential 2007」をもらいました。冊子を開くと、「誰のためになぜシステムを作るのか」本質的なことがたくさん書かれていて、つい熱中してしまって一気に読んでしまいました。マネジメント手法こそウォーターフォールでしたが、Jesse James Garrettの5段階のモデルや、フロントとバックでどう連携して設計や開発を進めるか、開発フローへの言及もありました。Flexでのアプリケーション開発と、RIA開発の思想に魅せられ、きゃっきゃ走り回っているうちに、2週間があっという間に過ぎて行きました。「ああこの入館証がないとここにはもう入れないんだな」と寂しい気持ちでインターン先を後にしたのでした。

インターンシップに参加した際、Webクリエイティブに憧れる一方、mixiにのめり込みインターネットで使えるサービスにも興味が出てきたわたしは、ICT教育を専門にする研究室に所属し、卒業研究としてスライドをオンライン上で複数人で編集するアプリケーションを開発しようとしていました。静的なHTMLではボタンを配置するのが限界で、GUIの難しさに頭を抱えていたため、ぬるっと動くインタラクションが表現できるFlexはあまりにも衝撃的過ぎて、その後学割でFlex Builderを購入しました。

広告か、道具か、それが分かれ道だ

大学生活が楽しくて、映像やグラフィックなど色々やったけれど、何を仕事にするか迷っていた私でしたが、webなら映像やグラフィック、すべての要素が詰まっているのではないかと思い、新卒での就職活動は広告系やWEB制作会社を中心に受けました。RIAのインターンがあまりにも楽しかったのもあり、インターン先の企業も受けました。ただ、あのRIAのチームに入れないなら別の会社に行く、と人事に啖呵を切って専門コースの面接を受け(ぺーぺーの学生が、大企業によくもそこまで言えたものです...)、RIAがやれることを前提に内定をいただきました。他にもうひとつ、広告系のWEB制作会社でデザイナーをする道もあり、当時インターン先の指導員だったお姉さんエンジニアにかなり相談に乗ってもらいました。

「ひろみつには、広告系クリエイティブのWEB制作が向いているような気がするよ?後悔しても知らないよ?」 「大丈夫です!逆に今の会社で嫌なところってないんですか?」 「うーん、給料が安いくらいかな」 「それだけ?他は?」 「ないよ」 「じゃあ問題ないですね!!!」

お姉さんエンジニアの心配をよそに、たとえ後悔してもその時方向転換すれば良いのみ!と腹をくくって、エンジニアとして歩む道を決意したのでした。エンジニアがゴールではありませんでした。その頃なりたかったのは、技術と企画の橋渡しができるジェネラリストと言っていました。mixiブクログのようなインターネットのサービスを作ってみたいけれど、企画しようにも技術がわからず何ができるのか分からないし、そんなの絵に描いた餅だ。新卒カードを使ってでも、研修でプログラミングをモノにしてやろう、あとで技術からデザイナーや企画系に変わればいいんだという目論みがありました。

今思えば、似た技術を使っていたとしても、WEB制作会社が制作していた華やかなキャンペーン系WEBと業務RIAは少し違う領域でした。制作会社の「デザイナー」になるのか、業務RIAの「RIAアーキテクト」になるのかの天秤だったのです。言い換えれば、消費を後押しするデザインをするか、道具のデザインをするかの分かれ道でした。一方、Webのことは大好きだけれど、ユーザーに何かを提供したいと思ったとき、Webに手段が限られない場所がいい。紙媒体やディスプレイ、イベントでもいい、手段ドリブンではなく、目的に沿って手段を選べる企画ができるのがいい。そうやって、その先10年近く籍を置くことになる会社を選びました。

ハロー Java!!

晴れて入社できた私を、1年半のエンジニアリングのOJTが待ち受けていました。私が入った部門の新人は、システム開発の基礎として、1年ほどかけてJavaでのアプリケーション開発をOJTでみっちり叩き込まれる教育方針でした。このタイミングを逃したらエンジニアとして基礎からできるなんてきっとない!とかなり前向きだったのですが、周りに工学や機械系出身のJava経験者が多かったこともあり、バキバキに心が折れながら修行する毎日が続きました。先輩RIAアーキテクトに、「RIAやりたいって来てるらしいけど、flexもプログラムだからね。プログラムできないとただのデザイナーだよ。」などと煽られる(いま考えるとただのデザイナーという物言いもひどい)など、本当に意識だけ高くてぽんこつな新人時代でした。それでも、技術とデザインを繋いだものづくりをするんだという謎の使命感だけは燃え尽きず、先輩エンジニアが電車内での勉強のために分厚い技術書を3枚おろしにして毎日持ち歩いていると聞けば真似をして高い技術書を切り刻んでみたり(あとで先生に見つかって、本を粗末にするなと怒られました)、先生から本には線をひきながら読みなさいと言われれば愚直に本を線とメモだらけにしていました。「実力が伴わない主張ばかりせずに今はスキルと知識を身につけるんだ」そうやって自戒しながら。

研修では、言語特性を知るためのJavaでのコードゴルフ的なものから、UMLの図の書き方、ドメインモデリングユースケース記述、実装、O/Rマッピング単体テスト結合テストまで、ありとあらゆるエンジニアリングの基礎を叩き込まれていきました。それまで私がプログラミングと思っていたものはほんの針をついた一部分でしかなく、エンジニアリングとは、システムづくりとはこうも広く奥深いものなのかと知りました。

当時、いちばん教育に心配な新人を講師の隣にするという暗黙のルールがあり、私がその席でした。10年経ってから、久々に講師陣と話をした際に「あのときは質問に返答してもいまいちわかってない顔をしていて、こいつは駄目だなと思ったものだけども、数年経ったら当時優秀だったメンバーよりもひろみつ氏のほうが伸びていた。大事なのはその時のスキルじゃなくて熱量だ、自分の教育の感覚を見直さなきゃと思った。」と言われとても嬉しかったです。

Javaは辛かったけど、この研修がなければ私はエンジニアとして立ち上がれなかったと思います。Javaの先生からは、「技術書は自分のお金で買って線を引きながら読むべし」「行き着くところは宗派」なんて教えられていました。今では、技術書を買って読むことが習慣になり、エンジニアリングもデザインも、行き着くところは宗派で、どんな思想を信じて世界を構築するかの話になると思っています。

RIAの本質だとわたしが思うこと

今更、元カレを忘れられないような引きずり方ですが、ここでちょっと脱線してRIAの昔話をします。今では死に絶えた「RIA(Rich Internet Application)」と呼ばれた技術ですが、むしろ今では表現力が上がり、すべてがリッチです。

当時静的なWebでは表現しきれなかった、動的な、画面へ表現力を与えるものがRIAでした。OSネイティブのソフトウェアと比べ、Webシステムでは入力のたびにページ遷移して動作がもたついたりして、Web上でアプリケーションを実装するには表現力が低い時代があったのです...。主にクライアント側の機能を強化し、OSネイティブと同等の操作感、表現力を備えることを目指していました。当時、Adobe FlexAIR, Microsoft SilverlightAjaxなどがRIA技術とされていました。ご存知のとおり、Flashが終焉を迎えたことによって、ブラウザにプラグインを入れるリッチコンテンツの実行環境は軒並み下火になりました。Silverlightは2021年、Flash Playerは2020年にサポートが終了します。

技術スタックも好きでしたが、私が気に入っていたのは特徴とその思想でした。それまで主流だったインストール型の業務系アプリケーションは、アップデートの度にインストーラーを配布してインストールを促さないといけませんでした。それでは業務上の実行環境を揃えることが難しいため、配布と更新が容易なことがRIAの特徴にあげられていました。それと、複数のプラットフォームに対応していること、表現力の高いUIが構築できることが特徴でした。Webブラウザさえ入っていれば、誰でも同じアプリケーションを使って仕事ができて、常に新しい環境を使うことができ、操作性もOSネイティブと同等。いまのSaaSでは当たり前だけど、それが次世代と呼ばれ、価値ある時代があったのです。

前に紹介した、「RIAシステム 構築ガイド Essential 2007」の1ページ目のタイトルには、「全てはユーザーのために。技術はますます多様化するけれど、ユーザー中心設計は不動の中核」とあります。人間とシステムの関係やユーザビリティが重要視され、利用の体験はXPと呼ばれていました。

情報処理技術の発達によって、正確さや処理速度の分野が向上していくことは、もはや当たり前です。残された課題は、操作する人間に近い部分だけとさえ言えます。どんな高度な処理が高速に行える環境が作れたとしても、それを操作する人間のリテラシーが追いつかなかったり、誤操作を招くインターフェースであっては、意味がありません。(RIAシステム 構築ガイド Essential 2007)

これらのRIAシステムは単に見栄えを良くしたものではないということです。...(中略)...企業が投資する「システム」とは、「ハードウェアとソフトウェアの塊」ではなく、操作する人間も含めた全体像だとする考え方が広まっていったのです。それが、「ユーザビリティ」という言葉であり、それを積極的に考慮した設計・開発を行おうとしているものが、結果的に「RIA」と呼ばれるものになっているのです。(RIAシステム 構築ガイド Essential 2007)

このようにRIAの開発ではエンジニアがデザインを理解し、デザイナーがプログラムを理解することが求められてきています。...(中略)...お互いの領域を完璧に習得することは不可能ですが、同じ基礎知識の上に立つことができれば、エンジニアとデザイナーが共通の認識、共通の言語で会話ができるようになります。また逆にエンジニアとデザイナーがお互いのスキルセットの違いを認識することもできます。デザイナーとエンジニアが刺激しあい、足りない部分を補い合いながら成長していけるようなチームになることができれば、こんな素晴らしいことはないでしょう。(RIAシステム 構築ガイド Essential2)

読み返すと、技術は変われど、今のWebアプリケーション開発と同じようなことが語られているような気がしてきます。Javaシステム開発の概要を知ったわたしはその後めでたく憧れのチームに入り、フロントエンド、UI設計、HCD、アジャイル...と旅を続けるのですが、結局必要な領域を約10年かけてゆっくり一個ずつ集めていっただけなのかもしれません。3年くらいでたどり着きたかった。。。

うーん、そろそろ長くなってきました。続きはまたこんど後編で。

ある日のわたしとユニコーン

※ 新型コロナが流行る前に海外に行ったときのぽえむ供養です。

ウクライナのカフェでユニコーンと会うイラスト

わたしのキャリアが10年を越えたくらいのある日、海外のソフトウェア開発チームと仕事をする機会に恵まれた。ビジネスアナリストからアーキテクト、UXデザイナーまでが揃っているアジャイルスクラムなんて当たり前のクロスファンクショナルチームと。

サービスの設計も中盤に差し掛かかり、これからやることの焦点を絞ろうとしたあるとき、日本チーム内の誰かが、海外チームのUXデザイナーについて言った。

「彼がやってるのはサービスデザインだから、フィニッシュワークなんて頼めないよ。」

何かすれ違っているのかも…。念のため彼にデザイナーとしての責務の範囲を聞いてみると、もちろんフィニッシュワークまでやるし、HTMLプロトタイプまでなら自分が作ってしまう、ということだった。そのあと一緒にやったユーザビリティテストの設計や半構造化インタビューはとても柔軟で、嘘をついているようには見えなかった。向こうの大学でも教えていたりするらしい。嗚呼!このひとはユニコーンかもしれない!

「日本ではそういうデザイナーのことをユニコーンと呼ぶんだ。めったにお目にかかれないからなんだけど...あなたはまさにユニコーンだね。」というわたしに、「そんなことを言ったら、うちのUXデザインチームはみんなユニコーンだよ!」と笑われた。

どういう巡り合わせか、そのあと彼らの国のオフィスに行く機会に恵まれ、年に2回しかないという全ブランチのオフィスにいるUXデザイナーが集まるmeet upに混ぜてもらえた。新型のコロナウイルスがにわかに騒がれるなか、カウンターの隅でりんごジュースを啜るどう見てもアジアから来たわたしに、地球の裏側はどんな様子?と興味深く話しかけてくれた。自己紹介をすると、「きみも黒い服だね。デザイナーが黒い服を着がちなのは世界共通なのかも!」と盛り上がったのが、受け入れてもらえたようでとても嬉しかった。

彼の同僚は、日本でワークショップをした際になかなか意見が出ずに困ったのだという。日本のひとはシャイなのかな?どうやって日本のチームではファシリテーションをしているの?と聞かれたので、気をつけてることなんかを話した。彼らの文化のなかでは、ワークショップの参加者は前のめりで、静かにしてもらう方が大変なんだとか言っていた。同じフレームワークでも、背景や文化が違えば工夫が違った。慣れない英語で、もっと深淵に潜れないことが悔しいほどに、聞いてみたいこと、議論してみたいことが後から後からたくさん溢れてきた。所属ではなく、チームの中で果たしている責務で自分を語ることができれば、たとえ地球の裏側でも、同じ話題で繋がれた。専門性は国と言語を越えるんだと思った。

自分たちのUXデザインチームのメンバーは、それぞれ異なる"Super power" を持っている。あるメンバーはプロダクトデザインが得意だし、彼女なんかは全領域をカバーしてるんだとその場のメンバーを紹介してくれた。C#をはじめ、JavaPythonなど様々な言語を使いこなしていたエンジニア出身のUXデザイナーもいた。エンジニアをやるうちにデザインのことが気になりはじめ、マネージャーと相談してUXデザイナーに転向したのだという。はじめて会ったのに、もちろんきみも"Super power" を持っているはずだとも言ってくれた。

彼らのチームは、専門領域からみても、チームの視点から見ても、謙虚さと尊敬と信頼があって、透明性が高かった。こういうコミュニティは彼らの国でも少なくて、そんな環境で働けている自分はとても幸せだ、いつか自分もそういうコミュニティを作るんだと話してくれた。「ここはユニコーンの村だね!」と話し込むうちに、いつの間にか時計は24時を回っていた。

明日は日本に帰らなければいけない。後ろ髪を引かれつつも帰りの挨拶に回るわたしに、「会えて嬉しかった。ここでの出会いは、きみのデザイナー人生の中できっと貴重な経験になり、きみを助けるだろう。お互い成長しようね。」と丁寧な激励の言葉をくれた。みんなとぎゅっとハグをして、薄暗い深夜のカフェを後にした。

ちょっとだけ、理想のチームを覗けた気がした。価値観はきっと、人との関わりからもできていく。お互いが影響を及ぼしながら少しづつ輪郭がはっきりしてくる。いつか、また彼らとデザインとテクノロジーの話がしたい。

いまの状況を書き留めておくことにした

世の中が、新型コロナの影響で目まぐるしく変化している。過去の自分のブログを読み返して、こういうときの自分の状況を残しておくといいかもしれないと思ったので書いておくことにした。

今の状況

今は毎日8時前に起き、8時に有志でリモートで集まってラジオ体操をし、家で仕事をしている。もともとコアタイムもない裁量労働制なので、時間の使い方は自由だ。VPNが繋がりにくいこともあるので、昼間は長めの休憩を取って夜にたおしたりして働いている。やることは変わらずあるので、なんだか忙しい。気づいたら夜になっている。

2月半ばにCIIDのワークショップに参加し、その会場も入っていたビルで罹患者が出たこともあり、念のためにと2月末に2週間ほど在宅になっていた。3月に一旦オフィスに通勤していたものの、世の中の状況からリモートが推奨になり、4月頭の緊急事態宣言からフルリモート体制になり、GWが近づいたいま、国は方針を発表していないものの、所属している会社は5末までフルリモートになった。いろんな制約のなか、いろんな人がより状況を改善するために尽力していて、変化に対応していくってかっこいいなと思う。

フルリモートワークで変化したこと

タイムラインでこんなツイートをみかけたので、考えてみた。

身だしなみの変化量

化粧しない日が増えた。ビデオ会議や外出で化粧するにも面倒なのでプチプラのクッションファンデで済ますようになった。クッションファンデ、早くてよい。フルリモートになる前、マスクして外に出てる時は汚れるのでリップメイクをしていなかったのだけれど、自宅だとリップメイクで遊べて良い。 会社に着て行ってた服は全然着なくなり、スウェット地の動きやすい服で過ごすようになった。AZULのトレーナーがヘビロテされている。物を持ち運ばないので鞄も使わなくなった。お気に入りの春コートも出番なしである。

気分転換の仕方

天気のいい日は観葉植物をベランダに出して水やりをするようになった。豆苗やアボカドも育てている。仕事の前に朝の散歩もしたりして、なんだかスローライフでおじいちゃんみたいな生活になったなと思う。 オンライン飲みもちょくちょくやっている。

身体のメンテナンス方法

有志でオンラインで集まり、朝のラジオ体操をやっている。仕事前に朝散歩もしている。オフィスに出ていた際には8千〜1万歩歩いていたので、全然運動量が足りていない気がする。先日歯医者のために外出したら疲れすぎて寝てしまった。

雑談の効果や必要性、実施方法

めっちゃ必要だなと思った。会社に雑談タイムができた。オンラインランチもたまにやる。みんなの状況が分かり自分だけではないことを安心できる。

新しく始めたこと

週次でオンラインでReact勉強会をやっている。2時間くらいコード書くのに集中するとだいぶ気分転換になってよい。5月にはりあクト!本を終えられそう。

事前にやって良かったこと

2月末の在宅の時点で、その時の椅子と机では肩が凝るしお尻が痛すぎて30分も座っていられないことが判明し、緊急事態宣言が出る前に奮発して良い椅子を買った。あと、捨てる予定だった広めのデスクを組み立てた。会社のノートPCのキーボードが打ちにくいので、キーボードも新調した。この前届いたクレジットカードの請求書がすごいことになっていた。おかげさまで腰やお尻の痛みと肩こりからは解消された。

消費の変化

いつも昼夜と会社の食堂で食べていたものだから、スーパーの食費ががつんと上昇した。ただ、毎朝コンビニに寄って買っていたお菓子や朝昼の飲み物を買わなくなったので、意外とお金は使わなくなっているのかもしれない。ライブに行けなくなったがグッズはなお買っている。服や化粧品は全然買ってない。

自宅やオフィスに対する価値観に変化があったか

机を拡張して椅子を購入したので、部屋がちょっと狭い。広い家に引っ越したくなった。これまではある意味、帰って寝るだけの空間だったのだけれど、「過ごす」ための部屋になり、部屋が片付いてきた。 オフィスには全然行ってないので、自分の席がどこにあったか忘れそうである。仕事は全然家でもできて、横槍が入らないので集中できる。ただ、様子がわからないので情報が少なくなっている感じもある。

ストレス

3年前くらいから慢性じんましんとゆるゆる付き合っているのだが、最近蕁麻疹が酷くなってきた。引きこもって仕事をするようになって薬を飲んでも抑えきれないときがあってかゆい。元々食いしばりもあって、夜はマウスピースを使っているものの、奥歯が2本欠けてしまった。一本は縦に深めに割れてしまったらしく、根の治療含めた歯医者通いが続いている。フルリモートだから、通勤やらストレスが減ったと思いきや、別のストレスがあるのかなという感じ。フルリモートになり、成果が出せていないのが目に見えてわかるようになり、しんどさがある。オフィスにいると通りがかる同僚がしかめっつらしてるよと注意してくれたものだが、おそらく今ひとりですごく眉間にシワを寄せてモニタを見ているのだろう。 居心地が良かったSNS上には、いつも以上に思想と主張が溢れていて、なんだか居心地が悪くなってきた。空間を変えたり、対面で人と過ごすことって大切だったのだなと思う。

エコシステム

弟はトラックの整備士だ。夜間、物流のために走るトラックなんかも整備している。わたしは家に篭ってデジタルの仕事をしていて、生活するために宅配を使ったり、スーパーに行ったりしている。スーパーには商品を運ぶための物流があって、その物流のためのトラックは、また弟のような専門家が支えている。なんて世界は繋がっていて、回っているのだろう。ふと、自分はその社会のシステムのなかに、ひとつでも価値を提供できているだろうかと、思ったりする。1月末に、世界がこんな状況になるとも知らず、デンマークに海外出張にいってきた。その時から、社会のエコシステムとデザインの役割ににすごく意識が向くようになった。この不確実な状況で、その感覚がより強くなっている。

オンライン帰省という名のビデオ会議

GWの香川への帰省は今回は帰れない。次の夏休みも、おさまるかどうか微妙だと思う。安倍総理がオンライン帰省などというものだから、実家とビデオ会議する方法はないかしらと電話してみた。両親はどちらもガラケーで、母親に至っては携帯でネットができる状態もない。パソコンはあるけどカメラなんてついているのかしら、ついていないと言ってたけど...ということで、その日は結局そのままだった。

ある日、日にちをまたぐくらいの夜中に親から電話がかかってきて、話を聞いたら「すかいぷ」というのをインストールしたから、これでオンライン帰省ができる!という話だった。父親がMS-DOS時代くらいからパソコンいじりをしているので、家には古いデスクトップと、2万円くらいのノーパソがある(ちなみに父母2人とも同じのを持っている)。いくらパソコンおたくだったからといっても、父は最近の流れまではついていけていないらしく、Yahoo!だとチャットができた!ということで時代が止まっている。「すかいぷ」でもできるというから、インストールしてくれたらしい。

母がテレビ電話をするというので、普通の電話のほうで状況ききながら、「何で登録した?」「いま画面になにがみえとる?」「何色のどんなボタンがある?」「じゃあその受話器マークを押してみて」と相手側の画面を想像しながら一個ずつ解決していって、あーこれってCSの方たちがやってることに近いのかもとすごく思った。電話番号を登録したというので、私が知ってるSkype IDの概念がなかった。電話番号で検索してこちらからコールするところからスタート。どこを押せば通話開始されるか分からず(承諾しないといけないので)、1回目は失敗した。向こうの画面には履歴が見えているっぽかったので、承諾ボタンを探してもらったけれど、承諾という概念も難しいのだなと感じた。最終的には、向こうからコールしてもらう形で無事につなぐことができ、ビデオ会議に成功した。

福岡時代も東京時代も、約17年間(!!)、両親はわたしの元を訪ねたことがなかったので、暮らしを知らなかったのだが、画面ごしに知ることになった。なんだか、どこでもドアみたいだった。

いのちだいじに

テレビでは、知っている芸能人の方々の悲報が流れてくる。若い頃の総集編を見ながら、その時期はこんな最期になるなんて想像できないものな...生きるって尊いな...と思ったりしている。わたしは年齢的に危険と言われる年齢じゃないけど、この前受けた人間ドックで、思いがけずいくつも不調が見つかり、病院にいかないといけないこととかもあるし、テレビ電話に映る両親は予想より髪に白いものが混じっていたりして、60代、もうすぐ70代だなと現実を感じる。去年書いた記事に、思うことが多い。

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最近、大好きな瀬戸内芸術祭の作品のひとつである「漂流郵便局」の書籍の2冊目が出た。亡くした母親に向けた手紙が多く、いつか人はいなくなってしまう儚いものだよな、限られた「生きる」を楽しまなきゃなと思ったりしている。

家に引きこもっていると、いつもより気持ちが落ち込む。ただでさえ引きこもりで気持ちが落ち込むんだからそんなこと考えないの!って話かもしれないけど、浮かんでくるもんはしょうがないぢゃんね。

2019年のふりかえり

2019年、納めました。毎年、31日にふりかえりのブログを書いています。2018年はこれ。

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2018年の年の瀬にはこんなこと↓を言っていたのですが、

2018年は、珍しくとても中身が詰まっていたと思える年だった。たぶん、2年分くらいの密度。AIIT卒業してからだいぶ加速している感があって大変よい。

2019年は社会人人生のなかでも死ぬほどしんどかった。ストレスか体重が10キロ近く増えた。2018年の加速でそのまま離陸できなかった感じだ。毎日のように情けなさすぎて、しにてぇ・・・ってなった。たくさんの人たちにめちゃくちゃ迷惑をかけて、助けてもらって、泣きついて、それでも見放さずに付き合ってもらっていて本当に感謝しかない。人生そういうこともあるよね。みておれ2020年の立て直しを!!!

2019年の妄想はどうなったか?

毎年、次の年の抱負というか目標というか「これはやってみたいな〜」という妄想を書いているので、それがどうなったかをふりかえってみる。

  • 積みすぎてるUI設計やデザイン関連の古典を読んで真理に近づく
    • 2018年は実践に軸足を置いていてインプットが枯渇してたので古典やら教養を深めるっていうのを目標にしてたのだけど、その影響か「お勉強をするひと」「本ソムリエ」の異名がついたようにおもう。ちゃんと妄想を行動に移したってことね
  • 自宅の本棚を拡張する
    • 本棚拡張したので積み本が増えました。大丈夫、背表紙からなんかいいパワーが出てる
  • 運動不足を解消するためにボルダリング再開する
    • 扁平足になってしまい足痛(歩くのも痛い)により再開できず...よくなってきたので来年は再開したさ
  • ポーカー練習してポーカーのお友達を増やす
    • ポーカーやった。えいやで合宿行ったりした(トーナメントに出たのはいつだったか...記憶がない)
  • コードを書く
    • TSでReactやってみよーってやってたけど急に忙しくなって断念してしまった
  • UI観察日記する
    • やってたけど飽きてしまった(ぉ
  • 個人サービスつくりたい
    • コード書くの断念したのでこれも棚上げになってる
  • 技術書典出してみたい
    • 2020年のやつに出すことにした。いま原稿書いてる。
  • iPadでSketchnote描けるようになる
    • iPadより紙だよね!から抜け出してない
  • DDD本読んでDDUXの真理にたどり着く
    • DDD本のオンライン読書会をして前半の重要そうなところは読んだ。まだ真理にはたどり着けていない。仮説はあるのでこれから。
  • アジャイルとデザインの相性悪いんじゃないか問題を紐解く
    • 外的要因によりワークフローの研究より、対組織論みたいなほうに軸が移行した。諦めてない。
  • どっかで話す
    • RSGTにプロポーザルを出してみたけど、採択はされなかった。ちゃれんじはした!あと、SmallIAさみっちょなる配信に出た。

2019年のやったこと / できたこと

歯をくいしばるようなことはたくさんあったけれど、今年できたことも結構あった。

本を読んだ

今年は特に前半、スーンと暇になったのでやたら本を読んでいた(その分積んだ本も多い)。UIデザイン関連の本を読み進めていたら「アクセシビリティ」と「インクルーシブデザイン」のことが気になり芋づる式に関連本を読んだ。知らなかったデザイン分野の知識をもぐもぐできた。

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海外勢と仕事した

本業のことは詳しくは書けないけど、海外のエンジニアやデザイナーと仕事をするチャンスが2回ほどあった。どちらも1ヶ月にも満たない短い期間だけれど、英語100%の環境に放り込まれて、自分の英語力とデザイン/エンジニアリングの知識でどれだけ勝負ができるのか試せた。アメリカではエンジニアもデザイナーも尊敬されているし、ひろみつの能力ならこっちにくれば今の2倍の年収にはなるよ(ただし物価も2倍になるけどね)と教えてもらった。本当かはわからないけど。ヨーロッパからきたUXデザイナーが「ノーマンに会ったことある!サインもろたんやで!」って自慢してきて微笑ましかった。どこの国のデザイナーも、大御所に会えるとテンションが上がるのね。私のワークショップグッズのマステをやたら褒めていたので、プレゼントした。

お友達たくさん

デザインとエンジニアリングを横断しているような人と話したいなーと思ってTwitterでナンパばかりしていた。Jesse James Garrett の5階層のモデルを、「5階建てのパンケーキだ!」なんてふざけて、pancake.uxなどというお茶会を開いていたりした。階層を横断している、デザイナーともエンジニアとも名のつかない人と話がしたかった。同じような志向を持っている人たちと出会えて、たくさん話せてとても楽しかった。大学の先輩と再開して開発とデザインの話ができたりもした。人生何がどう繋がるかわからない。

HCDのインタビュー記事を書いてみた

ご縁があって、HCD-NetのHCD専門家の受験者募集にあたって毎年出ているインタビュー記事を2本書かせてもらった。はじめての経験で、めちゃくちゃ時間がかかって苦労したけど、メディアの編集部の方に助けてもらいながらも、無事に公開することができた。

最終的に使う人のことを考えて、いいものを作ろうとしている人たちの話が聞けてとても胸が熱くなった。インタビューは前任の方にほぼお任せだったのだけれど、インタビュー難しい・・・。「なるほど」だけで終わってしまうとなかなかその先を引き出せない。オウム返しでもいいので言葉を返したときに「そう!」って返ってくると嬉しい。

記事にするときに、話した言葉はインタビュイーのものだからコンテクストは歪めたくないなと思って書いていたけれど、そこにこだわるあまりに、はじめはうまく書けなかった。何度かの校正の結果、編集に必要なのはたくさんの言葉と、その言い換えを知っておくことじゃないか、「ことば」と「コンテクスト」にどれだけ敏感になれるかじゃないかと思いはじめた。

インタビュー中はスケッチノートを書いていて、話題の大まかなブロックとかkeyになる言葉を整理して、その後ブロックを組み替えて記事の流れを再構成して書き進めるというやり方でやってみた。これって情報設計に似てるなと思った。

これは、身近なヒーロー達をもっと知ってもらう活動。好きなバンドのライブレポート書くのに似てる。

SmallIAさみっちょなる配信に出た

emi moriya (@emim) | Twitterさんに紹介されて、Small IAさみっちょという配信に出てきた。主催は、坂本さん森田さん和田さん。一回り上の世代の、私からみたら背中を追っている人たちだ(語彙)。一回り上の世代って、その人たちが書いた本とか記事を読んで育ったわけで、わたしの目線から見ると、その人たちと配信で話ができるくらいには成長できたのかしら?と思えてよかった。

年の瀬の忘年会の多い時期に、直前にTwitterでちょろっと告知したにも関わらず、わたしの想像より多くのひとに反応してもらって嬉しかった。いいとも形式で声をかけてもらえたのも嬉しかった。配信に出たあとに考えたことはまたブログに書こうと思う。

Sli.doに質問を受け付けつけて自分について話すのは初めてだったけど、外から見た私への疑問=私への認知で結構面白かった。どうやら、「たくさん勉強する」「いろんなことに興味を持っている」けれど、それがどの的に向かっているのかよく見えなくて、「このひとは何処に向かっているのか」知りたいみたいだった。

勉強会屋さん

2019年は、勉強会屋さんじゃないかというくらい、勉強会の講師をやったりワークショップのファシリテーションをしていた。実践せずに出してばかりいると、自分がスカスカになるということを実感した。手を動かしていないぶん、知らないことは増えている。腕力の衰えには怖れを感じる。レバレッジを効かせるためにどこに重心をかけるのか、分かれ道がきているのだと思う。

2019年にわかったこと

『こどもが魔法少女やヒーローに憧れるように、わたしはGUIの設計家になりたかったんだ。』ということに、何周か回って気づいた。「今更UIデザインなんかやるの?」と友達に言われたときに、すごく大事なことを踏み抜かれたようで、年始にめちゃくちゃもやもやしていた。

  • デザインとエンジニアリングを橋渡ししてGUIを設計する
  • チームでつくる
  • ユーザーの役に立つものを作る

は、当たり前だけど踏まれると怒るくらいには大事なものだった。あと、ちょうど社会人10年が終了して、色々考えているうちにここにたどり着いた。

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2020年の妄想

2019年同様、目標と書くと達成できないので忘れないように妄想を書いておく。

  • 岩盤ヨガに行きたい
  • ボルダリング再開
  • レアジョブ続ける(まずは週4復帰)
  • 1ヶ月ふりかえりをやる
  • 技術書典に無事に本を出す
  • コード書く
  • 積みすぎてるUI設計やデザイン関連の古典を読んで真理に近づく(継続)
  • DDUXの真理にたどり着く

そんではまたらいねんー

生きることと死ぬことへのファクトフルネス

久々に、だらだら自分の脳内をまとめる長文が書きたくなったので「ブログ」っぽいものを書こうと思う。最近、母親と電話するときに「あれ?この話は冒頭でしたのにまた質問されているな?」と思うことが増えた。たった数分前の会話なのに、同じ会話をしていることがたまにあってドキリとする。聞き漏らしだと気にしないようにしようとするが、続くとやはり物忘れやその先にある認知症を意識せざるをえない。長期休暇で実家に帰るたびに、白髪が増えたかな?祖母の記憶力が少し衰えたかな?そんなことが気になってくる。

ああ、今は永遠に続くわけじゃない。

当たり前だが、私たちは確実に老い、死に向かってゆく。各々の残り時間は公開されていない。きっと、わたしも平均寿命くらいは生きられるかな。そんな、不確実な予測のもと生きている。M-1のぺこぱのおきまりの台詞「時を戻そう」。現実では、時を戻すことはできないし、時計は左回りに回らない。なにも、悲観的になっているわけじゃない、事実そうなのだ。

29年 = 56840時間

最近、希望する高齢者は70歳まで働けるようにしようとかいう高年齢者雇用安定法改正案のニュースも耳にする。まだ決まったことじゃないので仮に定年を65歳、かつそれまで健康に生きられるとすると、わたしの残り時間はあと、29年。年間休日の平均は120日と言われているので、1年間に365-120=245日働く換算で、1日8時間だとすると、245日×8時間×29年 = 56,840時間残されている。これを、働く=生きるとして考えたときに、何に投資をするかを考えることが必要なのではないかと最近思うようになった。

1万時間の法則で考えると、新しいことを5つくらいはできそう?でもきっと全部は使えない。病気や、介護や、もしかしたら育児もあるかも(もしかしたら事故か急な病気ですぐ旅立ってしまうことも考えられる)。やりたいことを100パーセントやれるわけでもないだろうし、パフォーマンスだって落ちる。それも鑑みたうえで、何に使う?わたしは、生きている間に、何を成そう?

5日×3回×20年 = 300回

仕事だけじゃない。たとえば。両親が健康で、85歳くらいまで生きるとして、あと20年。たった、20年。孫だって成人しない。わたしの仕事人生の残り29年のうち、20年、毎年正月とGWと夏に5日間ずつ帰省したとする。朝昼晩のごはんを共にしても、5日×3回×20年 = 300回 。あなたと何回、食事を共にできるだろうか。たとえば、この文章を読んでくれているなかにいる友達、なかまもそうだ。あとどれだけ食事を共にし、おしゃべりできるだろうか。もし伴侶ができたとして、子供ができたとして、どれくらい一緒にいられるだろうか?

限られたリソースを何に配分するか

そんなことを考えはじめると、生きること、時間、いろんなひとと会うこと、食べることが急にとても貴重なものに思えてくる。いくら医療が発達したとしても、今の予測では人は、かならず死ぬ。人生の終わりは等しくくるのだから。たぶん、年齢なんかもあるのだと思う。30代半ばになると、先に生まれた先輩たちが、別の世界に旅立っていく。そういうタイミングに同席する機会が増える。そうすると、あまりにもあっけなくこの世界からいなくなってしまったことがとても不思議で、ああなんてこの体という乗り物は不確実で不安定なのだろうと思うのだ。

悲しむことや、凹むことや、むかつくことや、喜ぶこと、交渉がうまくいかなくて詰むこと、対立すること、受け入れられること、全部全部含めて生きる時間だ。どうせなら、ネガティブな時間は減らしてパフォーマンスが出るように時間を使いたい。せっかく、居心地のいいひとたちと過ごすなら、愚痴なんかよりももっとわくわくしたり深まる話をしたい(もちろんそのひとのためになるなら相談を聞くことは嫌じゃない)。

ポーカーをやったことも、大きいのかもしれない。ゲームに関しては完全に弱くて自分のスタック(保持しているチップ)はすぐに吹っ飛んでいってしまうのだが、なんだかポーカーに似ている。アジャイルコーチングの本を読んだら、『配られたカードを変えることはできない。変えられるのは、そのカードでどのようにプレーするかだけだ』と書いてあった。配られたカード(環境、スキル、運とか色々)と、手持ちのチップ(残された時間)を使った人生ゲームなんじゃないかな。もう、ひとのゲームにチップを賭けている余裕がない。

好きに生きろ

このごろ呪いが解けて、ひととじぶんを少しずつ切り離せるようになってきた。誰かが叶わない想いをこじらせてしまって、悲しみからくる怒りや嫉妬を向けてきたとき(恋愛ではなく人生において)、「それは彼/彼女の問題だ」と思えるようになってきた。昇華できずにこじらせている他人の苦しみを代わりに引き受けてまで、限られた生を使う余裕はないと思えるようになった。

そうこうしていると、自らのこじらせにより私の人生をコントロールしようとしてくるひとがてんでダメになってしまった。意思を尊重し、死ぬその時まで選択の自由があること、誰かの意思ではなく自分の意思で決断していること。たぶんそれならいつ人生の終わりが来ても笑える。「落ち着いたら、あとでやろう」なんて、いつまで経ってもないし、そうこうしているうちにも時計の針はどんどん進んでいる。

ちょうどこの前、長いこと推していたデザイン会社が解散を発表した。そこには、「命をどのように配分していくか」について書かれていた。大学時代にアルバイトをしていたWEB制作会社の社長さんは「人生のほとんどは家族と仕事で占められている。だから、一緒に過ごすひとが大事なんだ。」と話していた。自分に残された命は自分のものだ、自らのハンドルを握って、自分の意思で使い道を決めていかねばならない。

はやくこれに気づきたかった。でも、今がわたしの最速なんだ。