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わたしがどうやって今のわたしになったか、ポエム的むかしばなし(前編)

昨日、インターネット老人会っぽい話を聞いたら影響されてしまい、去年から書いていたポエムを公開しようと思い立ちました。このあたりのツイートがきっかけです。

インターネットと出会った時代から現在まで、約20年間、ちょっと長い自分語りです。前半は、学生時代からどう技術とデザインに関する考え方を築いてきたか、後半は社会人になってどういうキャリアを歩んできたかを書いてみます。たまにドヤっています。

ハローインターネット

2018年の年末にNHKで放送された「平成ネット史」で紹介された「インターネット」が始まった時代。わたしの父親は機械系高校の出身で、なんだかんだ機械をいじるのが好きだったものだから、小学生の頃から家に「パソコン」がありました。タバコのヤニで壁が黄ばんだ部屋に、デスクトップ一式。土日になると、富士通バザールでござーるの旗が並ぶパソコンコーナーに父と一緒に通っては、見本として並んでいるパソコンのチュートリアルやタイピングソフトで遊んだりしていました。

中学時代、仲の良い友達のお父さんもパソコンが大好きで、その影響か友達はHTMLを書いてホームページというのを作っていました。ホームページの「もと」を見せてもらったものの、それはものすごく難しそうで、尻込みをしたのを今でも覚えています。友達の家は歩いて50メートルほどの場所にあってよく通っていたので、彼女と遊んでいるうちにわたしは簡単なマークアップだったらできるようになっていきました。「サンドイッチみたくはさんだら、できるんだよ!」そうやってマークアップを覚えました。それからというもの、学校の帰りに本屋さんに寄ってはHTMLの本を読み漁り、「画像を表示するにはimgと書けばいいらしい」とHTMLタグを1個ずつ覚えてはダッシュで家に帰り、忘れないうちにホームページをいじっていたのでした(小遣いもなく高価で技術書を買えなかったのです...本屋さんごめんなさい)。

その頃、23時以降のテレホーダイと呼ばれる時間だけ、インターネットを使わせてもらえました。ダイヤルアップでチリチリと鳴る黒電話を取ろうとする母親を「電話ちゃうけん!」と静止し、夕方にせっせと作ったソースコードffftpで公開したり、KENT WEBで配布していたcgiをいじって設置した掲示板やチャットで好きな小説やアーティストの話をしていました。cgiを設置する際に設定する775とは一体何なのか、パーミッションの設定に四苦八苦した記憶があります。わたしが作ったホームページの名前は、「仮想空間」。描いた絵を公開したり、詩や小説、HTML講座なんかも書いていました。

インターネットで繋がった世界には、アーティストや小説など、その頃の私が好きなものと同じものを好きなひとたちがたくさんいて、メル友が何人かできました。香川のど田舎では、ライブになんか行けないから、東京や埼玉の顔も見たこともないメル友にポスターを買ってもらったりしました。掲示板で出会ったおねいさん方と分担してストーリー分岐型のゲームのようなものを作ったりもしました。現実では、スクールカーストの下の方にいたいじめられっこのわたしも、23時からログインできるその仮想空間ではのびのび遊べました。そこは、友達がたくさんいる遊び場でした。

Kyushu Institute of Design

絵を描くのが大好きで、中学も高校も部活は美術部にいました。高校進学の際には県内の工芸高校(公立の美術系の勉強ができる高校)を志望したのだけれど、すこしだけ勉強ができたので「勉強を捨てるなんて勿体無い」と親から結構な勢いで反対され、担任との面談時の反抗も虚しく進学校へ進むことになりました。あまりに反抗したものだから、高校の入学式の際に母親から「嫌な高校に入学することになってごめんなさい」という内容が書かれた手書きの手紙がきました。

ある日、県の絵画コンクールに出展したら、個人で美術館を運営している方から絵を売って欲しいと連絡があり、はじめて自分の絵が売れました。今考えれば、描くのにかけた時間にも満たない金額でしたが、美術系に進みたかった自分にはめちゃくちゃ嬉しかったです。そのころ、例に漏れず結構厨二だったものだから、自分の存在は透明に近いけど、描いた絵だけは認められて、肉体が死んでも生きてた証が世にあるなとか考えていました。とんだ画家気取りです。

少し天狗になっていたのもあり、大学こそと藝大を目指しますが、案の定ここでも「芸術は儲からないから」と、また反対されるのでした。親の勧めは経済学部に行って税理士になるとか、理系だから薬学部に、などでした。長い間そろばんをやっていて、海外の交流大会に出ていたりもしていたので、わけもわからないまま、将来なりたい職業に税理士をあげていた時代もありました。周りの友達は薬学志望が多かったので、試しに薬学部の説明会に行ったらものすごくつまらなくて、一瞬で寝落ちてしまい自分には薬学は向いていないと悟りました。

その頃好きだった教科は数学と物理と英語と美術。物理実験室に通っては、物理の先生とおしゃべりをするのが日課でした。そこで偶然、国立理系(勉強も捨てない)だけど、芸術もやる大学を出たOBのおねいさんがいると先生から教えてもらえました。そこだったらいいんじゃない?電話かけてみたら?と先生に推されるまま、高校3年生が、同窓というだけで東京で働く見ず知らずのおねいさんに電話でアタックをかけ、その後長期休みで香川まで帰ってきているタイミングで高松まで会いに行ったのです。

そこで「芸術工学」という分野と出会います。芸術という名前がついているけれど、なぜかある程度の学力が必要な大学もあって、文句を言われず芸術系に行けそうな望みがありました。そうやって、日本じゅうの芸術工学部を志望校に入れ、パンフレットを取り寄せた大学の中でも、私の目に抜群にかっこよく映ったのが九州芸術工科大学でした。

しかし模試の評価はずっとD判定。センター試験の結果もふるわず。二次試験は数ⅢCと英語、デッサン、色面構成でした。このままでは地元の大学に行かされて、OLをして寿退社とかいうルートに乗ってしまう!これではここで人生終わりだ!と思い(本当にそう思っていた)ながら、必死に予備校に通いました。いざ福岡の受験では手応えがなく、九州に来ることはもうないだろうから記念だとひよこのキーホルダーを買って帰りました。ところが!自宅に届いた合格発表の通知の書面には私の受験番号が...!ほんとうに小指が一本だけひかかったくらいのギリギリで、九州芸術工科大学で晴れて「デザイン」を勉強できるようになりました。(ひよこのキーホルダーは、福岡土産としてばあちゃんにあげました。) わたしの人生の中で、九州芸術工科大学への合格が、一番の成功体験かもしれません。

Art and Information Design

大学には、芸術と工学の融合がデザインであるという、それまで知らなかった世界線がありました。九州芸術工科大学は、1968年に日本で初めて芸術工学という分野を掲げた国立の単科大学です。科学技術と人間の最も自由な発現である芸術を融合させた学問分野を目指し、「技術の人間化」をかかげ、技術を人のために活かす理念が流れていました。人間が技術を賢く利用することによって、より幸せな生活を送るために。人間を中心としたこの考えに、わたしは大変影響を受けました。

この学校には、工業設計、環境設計、音響設計、画像設計、芸術情報設計という、5つの領域が異なる設計学科がありました。本当は画像設計学科(グラフィックデザインが中心の学科)に進みたかったのですが、センター試験の点数が足りなかったわたしは芸術情報設計学科に進みました。英語での名称は、Art and Information Design。いまふりかえると、ソフトウェアデザインに通じるところがあります。芸術工学の概念から文化人類学、色彩学から符号化理論まで、デザインに関わるものから工学まで、幅広い授業がありました。幅広い分野は学んだけれど、これがどう繋がってなんの役に立つのか...工学の分野では工学部に劣るし、デザイン分野では美大に劣るのではないか、学生間では器用貧乏さがよく話題にされていました。

今考えれば、文化人類学のアプローチはユーザーリサーチのベースになるし、実際に技術を利用するにはその技術の成り立ちを知っておく必要があります。のちに学科のWebページを作ったのですが、その際のコンセプトは「未来のダビンチを目指して」でした。レオナルド・ダ・ヴィンチは画家として知られているけれど、建築や数学、幾何学、解剖学など様々な分野で業績を残しています。彼の絵画のリアルで美しい人物表現の裏には、解剖学からの人間の肉体への理解があります。それと同じように、技術を人間のために使うには、技術と人間の理解が必要だったのです。ファッションデザイナーが、素材を理解するように。ちゃんとそのことに気づくのに、結構な時間がかかりました。

はじめてのチーム

大学の課外活動には、照明演出や音響専門のサークル、ライブの記録映像を撮るサークルなど、とにかく専門的なサークルがたくさんありました。特に、学園祭に命をかけるような文化があり、サークルに加えて学園祭の企画に入って1年を通して活動をする人が多かったです。学園祭は3日間+前夜祭。テントの店を出す学園祭というよりは、文化祭に近く、ライブパフォーマンスや空間演出企画、ファッションショーやクラブっぽい企画まで複数の企画団体があり、工業デザインから建築/環境系のデザイン、グラフィックを専門領域とする各学科のメンバーが集まってきていました。

また、文化祭の最終日には「火祭り」と呼ばれる儀式がありました。背丈より高く木材を組んでできた火柱を囲み、テンポの速い太鼓の音に合わせて踊るのです。聞くところによると、大学の設立時、文化人類学の教授が、歴史の浅い大学だからこそ何か強いつながりができる儀式をと考案したものだと聞いたことがあります。

学園祭企画は、芸術工学という思想と同じ文化を共有した、各COE組織のメンバーからなる職能横断型チームのようでした。企画団体の組織は、企画のコンセプトの判断など、トップを務める「頭」と、映像班、美術班、音響班、広報など、その企画に必要な組織で構成されていました。それぞれの分野にも映像頭のような責任者がおり、横の組織と連携しながらひとつの企画を成功させるために有機的に動いていました。あるとき、私が所属していた企画の頭が「頭は実際に手を動かしてはならない。それだと各班で起こっていることが見えなくなって、不測の事態に対応できなくなってしまう。」と言っていたのが印象的でした。大学生ながらに、プロジェクトマネジメントとチームマネジメントをやっていたのです。

その頃のわたしは、インターネットのことを忘れて、グラフィックデザインや映像制作にのめり込んでいました。学園祭では、映像系のひととして、ライブの保存映像の撮影をしたり、演出映像の仕込みをしたりしていました。パンフレット制作の企画にも所属しており、「誰だこの文字詰めをしていない原稿は!」と先輩に怒られたりしながら、制作に関することを覚えました。学園祭企画はとても刺激的でした。同じ目的を共有し、様々な専門のメンバーが協力することによって、いち足すいちが「に」ではなく、それ以上のものが出来上がる・・・ここでの経験が、わたしがチームでのものづくりを信じる原体験になっています。もういちど、あのチームと同じようなものづくりがしたいと思いながら、日々働いています。

Rich Internet Application

就職活動か大学院進学かを考えなければいけないという頃、Webクリエイティブやインスタレーションが百花繚乱で、その頃の憧れはもっぱらWEB広告企業のクリエイター達でした。例に漏れず、中村勇吾さんがヒーローだったし、カンヌライオンを取るようなWEBの広告クリエイティブに憧れました。広告批評や、WebDesigning、Web creators など、図書館に入り浸っては広告系やWeb系の雑誌を読みふけりました。

かっこいいFlashコンテンツはグラフィカルなプログラミングができないと作れない。しかしそこにどう手をかけていいかもわからない...。漠然とWebクリエィティブに憧れたわたしは、とある大手企業のインターンシップFlashのテーマがあるのを見つけ、2週間のインターンシップに参加することにしました。そのテーマは、RIA(リッチインターネットアプリケーション)開発。Flashコンテンツとアプリケーションの違いも、オブジェクト指向プログラミングさえも知らない私は、ここでFlexを使ったGUIプログラミングに出会います。

インターンシップは、R&Dで実際に検討しているテーマを題材に要件定義から詳細設計、開発、テストの流れをひととおり体験するという流れでした。mxmlの書き方から、ボタンを押したらアラートを出す練習なんかをしました。今では笑っちゃうくらいですが、「クラスってなんですか!」なんて基礎中の基礎を指導員のかたに長々と質問し、ノートはメモでびっしり。よくもこのレベルの話に根気強く付き合ってくれたなと頭が上がりません。

インターンシップの1週目を終え、週末の宿題にとRIAコンソーシアムがまとめた冊子「RIAシステム 構築ガイド Essential 2007」をもらいました。冊子を開くと、「誰のためになぜシステムを作るのか」本質的なことがたくさん書かれていて、つい熱中してしまって一気に読んでしまいました。マネジメント手法こそウォーターフォールでしたが、Jesse James Garrettの5段階のモデルや、フロントとバックでどう連携して設計や開発を進めるか、開発フローへの言及もありました。Flexでのアプリケーション開発と、RIA開発の思想に魅せられ、きゃっきゃ走り回っているうちに、2週間があっという間に過ぎて行きました。「ああこの入館証がないとここにはもう入れないんだな」と寂しい気持ちでインターン先を後にしたのでした。

インターンシップに参加した際、Webクリエイティブに憧れる一方、mixiにのめり込みインターネットで使えるサービスにも興味が出てきたわたしは、ICT教育を専門にする研究室に所属し、卒業研究としてスライドをオンライン上で複数人で編集するアプリケーションを開発しようとしていました。静的なHTMLではボタンを配置するのが限界で、GUIの難しさに頭を抱えていたため、ぬるっと動くインタラクションが表現できるFlexはあまりにも衝撃的過ぎて、その後学割でFlex Builderを購入しました。

広告か、道具か、それが分かれ道だ

大学生活が楽しくて、映像やグラフィックなど色々やったけれど、何を仕事にするか迷っていた私でしたが、webなら映像やグラフィック、すべての要素が詰まっているのではないかと思い、新卒での就職活動は広告系やWEB制作会社を中心に受けました。RIAのインターンがあまりにも楽しかったのもあり、インターン先の企業も受けました。ただ、あのRIAのチームに入れないなら別の会社に行く、と人事に啖呵を切って専門コースの面接を受け(ぺーぺーの学生が、大企業によくもそこまで言えたものです...)、RIAがやれることを前提に内定をいただきました。他にもうひとつ、広告系のWEB制作会社でデザイナーをする道もあり、当時インターン先の指導員だったお姉さんエンジニアにかなり相談に乗ってもらいました。

「ひろみつには、広告系クリエイティブのWEB制作が向いているような気がするよ?後悔しても知らないよ?」 「大丈夫です!逆に今の会社で嫌なところってないんですか?」 「うーん、給料が安いくらいかな」 「それだけ?他は?」 「ないよ」 「じゃあ問題ないですね!!!」

お姉さんエンジニアの心配をよそに、たとえ後悔してもその時方向転換すれば良いのみ!と腹をくくって、エンジニアとして歩む道を決意したのでした。エンジニアがゴールではありませんでした。その頃なりたかったのは、技術と企画の橋渡しができるジェネラリストと言っていました。mixiブクログのようなインターネットのサービスを作ってみたいけれど、企画しようにも技術がわからず何ができるのか分からないし、そんなの絵に描いた餅だ。新卒カードを使ってでも、研修でプログラミングをモノにしてやろう、あとで技術からデザイナーや企画系に変わればいいんだという目論みがありました。

今思えば、似た技術を使っていたとしても、WEB制作会社が制作していた華やかなキャンペーン系WEBと業務RIAは少し違う領域でした。制作会社の「デザイナー」になるのか、業務RIAの「RIAアーキテクト」になるのかの天秤だったのです。言い換えれば、消費を後押しするデザインをするか、道具のデザインをするかの分かれ道でした。一方、Webのことは大好きだけれど、ユーザーに何かを提供したいと思ったとき、Webに手段が限られない場所がいい。紙媒体やディスプレイ、イベントでもいい、手段ドリブンではなく、目的に沿って手段を選べる企画ができるのがいい。そうやって、その先10年近く籍を置くことになる会社を選びました。

ハロー Java!!

晴れて入社できた私を、1年半のエンジニアリングのOJTが待ち受けていました。私が入った部門の新人は、システム開発の基礎として、1年ほどかけてJavaでのアプリケーション開発をOJTでみっちり叩き込まれる教育方針でした。このタイミングを逃したらエンジニアとして基礎からできるなんてきっとない!とかなり前向きだったのですが、周りに工学や機械系出身のJava経験者が多かったこともあり、バキバキに心が折れながら修行する毎日が続きました。先輩RIAアーキテクトに、「RIAやりたいって来てるらしいけど、flexもプログラムだからね。プログラムできないとただのデザイナーだよ。」などと煽られる(いま考えるとただのデザイナーという物言いもひどい)など、本当に意識だけ高くてぽんこつな新人時代でした。それでも、技術とデザインを繋いだものづくりをするんだという謎の使命感だけは燃え尽きず、先輩エンジニアが電車内での勉強のために分厚い技術書を3枚おろしにして毎日持ち歩いていると聞けば真似をして高い技術書を切り刻んでみたり(あとで先生に見つかって、本を粗末にするなと怒られました)、先生から本には線をひきながら読みなさいと言われれば愚直に本を線とメモだらけにしていました。「実力が伴わない主張ばかりせずに今はスキルと知識を身につけるんだ」そうやって自戒しながら。

研修では、言語特性を知るためのJavaでのコードゴルフ的なものから、UMLの図の書き方、ドメインモデリングユースケース記述、実装、O/Rマッピング単体テスト結合テストまで、ありとあらゆるエンジニアリングの基礎を叩き込まれていきました。それまで私がプログラミングと思っていたものはほんの針をついた一部分でしかなく、エンジニアリングとは、システムづくりとはこうも広く奥深いものなのかと知りました。

当時、いちばん教育に心配な新人を講師の隣にするという暗黙のルールがあり、私がその席でした。10年経ってから、久々に講師陣と話をした際に「あのときは質問に返答してもいまいちわかってない顔をしていて、こいつは駄目だなと思ったものだけども、数年経ったら当時優秀だったメンバーよりもひろみつ氏のほうが伸びていた。大事なのはその時のスキルじゃなくて熱量だ、自分の教育の感覚を見直さなきゃと思った。」と言われとても嬉しかったです。

Javaは辛かったけど、この研修がなければ私はエンジニアとして立ち上がれなかったと思います。Javaの先生からは、「技術書は自分のお金で買って線を引きながら読むべし」「行き着くところは宗派」なんて教えられていました。今では、技術書を買って読むことが習慣になり、エンジニアリングもデザインも、行き着くところは宗派で、どんな思想を信じて世界を構築するかの話になると思っています。

RIAの本質だとわたしが思うこと

今更、元カレを忘れられないような引きずり方ですが、ここでちょっと脱線してRIAの昔話をします。今では死に絶えた「RIA(Rich Internet Application)」と呼ばれた技術ですが、むしろ今では表現力が上がり、すべてがリッチです。

当時静的なWebでは表現しきれなかった、動的な、画面へ表現力を与えるものがRIAでした。OSネイティブのソフトウェアと比べ、Webシステムでは入力のたびにページ遷移して動作がもたついたりして、Web上でアプリケーションを実装するには表現力が低い時代があったのです...。主にクライアント側の機能を強化し、OSネイティブと同等の操作感、表現力を備えることを目指していました。当時、Adobe FlexAIR, Microsoft SilverlightAjaxなどがRIA技術とされていました。ご存知のとおり、Flashが終焉を迎えたことによって、ブラウザにプラグインを入れるリッチコンテンツの実行環境は軒並み下火になりました。Silverlightは2021年、Flash Playerは2020年にサポートが終了します。

技術スタックも好きでしたが、私が気に入っていたのは特徴とその思想でした。それまで主流だったインストール型の業務系アプリケーションは、アップデートの度にインストーラーを配布してインストールを促さないといけませんでした。それでは業務上の実行環境を揃えることが難しいため、配布と更新が容易なことがRIAの特徴にあげられていました。それと、複数のプラットフォームに対応していること、表現力の高いUIが構築できることが特徴でした。Webブラウザさえ入っていれば、誰でも同じアプリケーションを使って仕事ができて、常に新しい環境を使うことができ、操作性もOSネイティブと同等。いまのSaaSでは当たり前だけど、それが次世代と呼ばれ、価値ある時代があったのです。

前に紹介した、「RIAシステム 構築ガイド Essential 2007」の1ページ目のタイトルには、「全てはユーザーのために。技術はますます多様化するけれど、ユーザー中心設計は不動の中核」とあります。人間とシステムの関係やユーザビリティが重要視され、利用の体験はXPと呼ばれていました。

情報処理技術の発達によって、正確さや処理速度の分野が向上していくことは、もはや当たり前です。残された課題は、操作する人間に近い部分だけとさえ言えます。どんな高度な処理が高速に行える環境が作れたとしても、それを操作する人間のリテラシーが追いつかなかったり、誤操作を招くインターフェースであっては、意味がありません。(RIAシステム 構築ガイド Essential 2007)

これらのRIAシステムは単に見栄えを良くしたものではないということです。...(中略)...企業が投資する「システム」とは、「ハードウェアとソフトウェアの塊」ではなく、操作する人間も含めた全体像だとする考え方が広まっていったのです。それが、「ユーザビリティ」という言葉であり、それを積極的に考慮した設計・開発を行おうとしているものが、結果的に「RIA」と呼ばれるものになっているのです。(RIAシステム 構築ガイド Essential 2007)

このようにRIAの開発ではエンジニアがデザインを理解し、デザイナーがプログラムを理解することが求められてきています。...(中略)...お互いの領域を完璧に習得することは不可能ですが、同じ基礎知識の上に立つことができれば、エンジニアとデザイナーが共通の認識、共通の言語で会話ができるようになります。また逆にエンジニアとデザイナーがお互いのスキルセットの違いを認識することもできます。デザイナーとエンジニアが刺激しあい、足りない部分を補い合いながら成長していけるようなチームになることができれば、こんな素晴らしいことはないでしょう。(RIAシステム 構築ガイド Essential2)

読み返すと、技術は変われど、今のWebアプリケーション開発と同じようなことが語られているような気がしてきます。Javaシステム開発の概要を知ったわたしはその後めでたく憧れのチームに入り、フロントエンド、UI設計、HCD、アジャイル...と旅を続けるのですが、結局必要な領域を約10年かけてゆっくり一個ずつ集めていっただけなのかもしれません。3年くらいでたどり着きたかった。。。

うーん、そろそろ長くなってきました。続きはまたこんど後編で。